私の妻は結婚前に、イタリア・レストランのウェイトレスをやっていたことがある。
小さい店だから、当然ひとりで何役もこなさなくてはならない。大嫌いなトイレ掃除をやらされることになった。店にはお客さん用と厨房の奥のコックさん専用とがあって、その両方だ。
お客さん用は、防犯も兼ねてウェイター、ウェイトレスも使える客・業務員および男女共同形式だ。
嫌いだが、トイレの汚いレストランになど誰も来たがらない。だから必死で毎日きれいに掃除した。ところが…。
毎日、男子用の小便器の回りがビショビショなのだ(食事中の方、ごめんなさい)。それも一日何度も…。気づくたびに「ウゲッ」となりながらも、モップと雑巾で必死に拭いてきれいにする。
そのうち、ふと気がついた。犯人は不特定多数の客ではなく、特定の誰かではないかと…。
コックさんは全員男性だが、奥に専用のトイレがある。オーナーは時々顔を見せるだけだ。そして男のウェイターは…、オーナーの甥ただひとり。30過ぎても定職につかない彼を、みかねたオーナーが雇ったのだ。
あるとき、その甥がトイレから出てくるのを見て、妻はすぐトイレに入った。案の定、小便器の回りはオシッコでビッショビショ。「あンのヤロー…」と怒りつつも、お客さんが来る前にと、必死で掃除「ウゲッ」。
そして店の隅でボーっとしている甥の傍に行った。小さい声で「あなた、トイレ汚すのやめてくれない」と言うと、オーナーの甥は「何のこと? ぼく、汚してないよ」とそっけない返事。
「汚してるじゃない。今だって、ビショビショよ。掃除するの私なんだから、もっとちゃんとやってよ」「汚してないって言ってるだろ。ぼくだという証拠あんの?」
「証拠は…」自分が掃除したから残ってない。「証拠ないのに、無責任なこというな!」
それからも、ビッショビショは治まらない。怒り心頭に達した妻は、ある日ついに実力行使に出た。
オーナーの甥がトイレから出てくるのを待ち構え、彼の腕を捉まえてトイレに引きずり戻した。そしてドアの前にたちはだかり、小便器に指を突き付けてこう吠えた。
「見なさいよ! あんたが入る前にきれいに掃除したのに、このザマよ!」小便器の回りはビチャビチャ。甥は妻の剣幕に蒼ざめた。
妻は身長170センチ以上、当時は痩せていたが、高校時代フェンシングで鍛えていて肩幅はひろい。一方、オーナーの甥は小柄でヒョロっとしている。
「ぼ、ぼくじゃない…」
「とぼけるのもいいかげんにしてよ! あんた以外に誰も入ってないのよ。あんたが出てすぐ入って見たら、こーんなになってたのよ。ウソばっかりついてんじゃない! さっさと、オシッコ撒いたと認めろっ!」このときの妻のド迫力は、だいたい想像できる。
せっぱ詰まったオーナーの甥はこう叫んだという。
「よ、弱いものイジメ、す、するな!」「・・・・・・・・(妻、アゼン)」
妻がそのレストランを辞めたのは、それからしばらくしてだった。
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