ホッと一息の樹 titled by おたかさん
[別冊]ホ ッ と 一 息 の 樹(記)

ホッと一息の樹」から抜粋したものを[別冊]としてまとめています。
初出:2000/04/20(木)
フランス料理に釣られて

独身時代、妻はワープロの派遣社員として、小さな出版社に勤めていたことがある。学術雑誌専門の月刊誌営業部で、「部」といっても部長の他は、彼女と男性社員K君ひとりだけだった。
カタカタに固い雑誌だから、そう売れるわけはない。ただ、その月の特集は予想外に評判で、久しぶりにその雑誌としてはかなりな利益が見込めることになった。
ある日の夕方、帰り支度を始めていた妻に部長が声をかけた。「売れたお祝いにフランス料理を奢るよ」
妻の目が輝いた。言い忘れたが、彼女の食い意地は人並みはずれているのだ。フランス料理のコースなんて、私とでは絶対食べられない。
「でも、K君知ってるんですか?」営業部のお祝いなのだから、3人で行くのが当然だ。K君は先に社を出ている。
「あ・・・・、彼にはもう言ったんだが、今夜は奥さんと約束があるみたいで・・・・。残念だね、もう予約しちゃったんだよ」どうも、おかしい。部長が言い出したのも、K君が帰るのを待ってみたいだし。
しかし、ささやかな疑いより、妻の食い意地の方が勝つに決まっていた。
快諾してレストランの場所を聞き、部長が先に社を出た後、忘れ物をしたK君が戻ってきた。
「きょう、部長から何か言われなかった?」「ううん、何も」妻と同じ歳のK君は、すでに2人の子持ち、愛妻家だ。
やっぱりね。「なに?」「だったら、いいの」妻は何食わぬ顔で会社を出た。
部長はすでにワインを飲んで、待っていた。上機嫌だ。「君も飲んだら」
「いいえ、私お酒まったく駄目なんです」妻は、酒アレルギーの私と交際を始めてから、どういうわけか自分もアルコールを飲まないようになっていた。私を好きなわけでもないのに。
部長はちょっと残念そうだったが、無理強いするほど人は悪くなかった。40半ばの彼もまた愛妻家で、今夜は久しぶりに社長に誉められたため、多分少し気が緩んだだけなのだ。
フルコースを最後のデザートまで食べ終えた妻は、大満足だった。「ご馳走さまでした」そう言って立ちあがろうとする妻を、部長は慌てて止めようとした。「もう一軒行かないか。お酒は飲めなくても、いい感じの店が・・・・」
「部長」妻は静かに制した。「わたし、帰りにK君に会いました」部長の顔が蒼ざめた。
妻はにっこり笑って「おやすみなさい」と、そのレストランを去った。
翌日の昼休み、外に出た妻をK君が呼び止めた。「ありがとう。これ、部長から貰ったんだ」彼は、ファミリーレストランの食事券を見せた。「雑誌が売れたお祝いだって。今夜、家族と行くよ」
「よかったわね。でも、なんで私にお礼を?」
K君がニコっと笑った。「君のおかげだって、部長が言ってたよ。全部食べ終えてからバラすなんて、ひどいヤツだって」



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